彼氏にB専と告白された女さんの心理(勝手な推測)

どうやら女さんは彼氏に自分はB専だと告げられると傷つくらしい.

 

 

しかしながら,しばしば彼女らは見た目ばかりで評価する男どもに対して「結局,顔なんでしょ(怒)」などと言って不満をこぼしている.

そこで,男が綺麗で性格が悪い女性よりブスでも性格の良い女性の方が好ましいとして,B専を宣言したとする.このとき,先の不満を述べた女さんらはこのB専の男を歓迎することで筋が通るように思える.

 

ところが,実際の女さんの証言によると,自分の彼氏にB専を宣言されることは決して歓迎できることではないらしい. 一見するとこのことは矛盾しているようである.

 

ここでは,その場合の女さんの状態について心理学の”し”の字も知らない全くの素人がその心理を分析して得た考察をたらたらと述べたい.

 

まず,ひとつ仮定として大多数の女性は”綺麗に” "可愛く” なることに対してポジティブな感情を持っているとする.そして,それらのゴールに向かって様々な工夫や努力をしてきたであろうし,しているだろうし,していくだろう.

 

その状況下において,彼氏にB専と言われてしまうことは,その時点でブス(もしくはそれに準ずる程度の可愛さ綺麗さ)であると言い渡されることになる.

つまり,その女性のそれまでの綺麗さや可愛さを求めてきた行為では,ゴールに到達できなかったということだ.それはそれまでの努力を(ひいては彼女自身を)否定することになるのだ.

なるほどこれは傷ついて然るべきである.積み上げてきたものが否定されるのはつらいものだ.

 

であれば,なぜ美を求める女さんが「結局,顔なんでしょ(怒)」などと言ってしまうのか.おそらく,ここでいう”顔”とは,女さん達が必死で作り上げている”カワイイはつくれる”とは別の意味の”顔”を指しているのだろう.まさに生まれ持った”綺麗さ” ”可愛さ”である.これだけは,どうしようもないものであり埋めようのない差だ.

 

つまり男どもが,”作られた綺麗さ可愛さ”と”生来のそれ”を一緒くたにしてしまっていた為にこのような悲劇を生んでしまっていたのではないかと推察する.

B専という言葉を用いてしまうと,”作ろうとしている綺麗さ可愛さ”を否定してしまいかねない.そこで彼氏が彼女にどうしても伝えたいときは,ブス専門ではなく,感情を大切にする女さんのためオブラートに包んでカワイイ専()とでも言っておけば良いのかもしれない.

 

 

 

 

 

陰湿な負けず嫌い

僕は負けず嫌いだ.

だけど,とてつもない努力家というわけでも勤勉というわけでもない.

 

僕はほんの少しだけ鳥に詳しい.日本の市街地や郊外で見られるような野鳥ならだいたい目視で同定できる.鳥の生態についてもちょっと知ってる.何か研究するなら鳥の研究がしたいと思っている.

しかし,僕は今,修士で院にいるが鳥を扱っていない.

 

それは負けず嫌いだからである.

 

僕は鳥に詳しいが,所詮は ”にわか”(幼稚園のときから鳥を見てきたけど)でそこまで熱意があるわけじゃない.僕なんかよりずっと野鳥に関して広く深い知識を持ってる同年代のすごい人は沢山いる.そういう凄い人がいることを知っている.

 

つまり,鳥関係の研究分野に行ってしまうと,僕は得意分野で敗北することになる.僕よりずっと優秀で博識で熱意溢れる鳥人(超)たちに,自分の中ではわりかしできると思っている分野で,その差を見せつけられることになる.

 

だから負けず嫌いの僕は鳥の研究には行かなかった.

 

例えをあげるなら,剣道の選手が剣道の試合で負けるのは悔しいものだろう.しかし,剣道の選手がアーチェリーの試合でアーチェリー選手に負けたとしても,それはそこまで悔しくない.そもそも専門が違うのだから,負けて当たり前なのだ.

 

それで,僕は陰湿な負けず嫌いであるのだ.

 

 

 

 

 

 

一人っ子のデメリット

一人で居るときに楽しむことを覚えてしまうことで,誰かといるときの楽しむことへ価値を感じにくくなってしまう.

往々にして,金を生み出す行為は人と関わる必要がある他者と時間を共有する必要がある,一人でばかりいるとそれは金から遠ざかっているようなものだ.

なろうの魅力

空想の物語を楽しむという欲求の原点がストレートに表現された作品

どこに出しても恥ずかしくないように取り繕ってしまったものや、

斬新さや捻りを加えたようなものなどの商業作品でみられる売る工夫がない純粋な創作の欲求から生まれたアマチュア作家の作品の魅力に出会ってしまったのです。

シナリオ・展開の面白さやできは置いておくとして,

読んでいてのめり込み惹きつけられるような文章と,そうでないものがある.

 

 

その違いは何なのだろうと,

ここ4年ほどそんなことを思い立ったように思案している.

童貞は悪だろうか?

童貞というのは褒められるまではいかなくとも少なくてもそれが蔑称として相手を罵る言葉として使われることは絶対的に間違っているはずだ!このことは、童貞と非童貞にそれぞれに含まれる男の要素について具体的に考えてみれば明らかであるのだ。

 

まず、童貞を蔑称として用いる場合、童貞であるその男の人格を否定する意味合いがあると捉えることができるだろう。

それはつまり、童貞に含まれる要素男性の全てが人格を否定するに足る思想や態度を取っているということになる。

もし、この時点で、いやいや童貞の中にも良い奴はいるという意見に賛成できるなら、童貞を蔑称として用いることが間違っていることが明らかだろう。

 

しかし、いや童貞野郎は総じてクソだというなら、例えば下記のような場合も考えてみてはどうだろう?

 

例1.その男は大学生で童貞だが彼女はいる。彼女がいるのに童貞であるのは、彼女が本番(挿入)は怖くてできないと言っていて男がそれを尊重しているからである。

この場合、その男が童貞を卒業するには、

①彼女とは別にやらせてくれる女を見つけてヤる(彼女いるにも関わらずor別の女とやるために彼女と別れて)

②彼女をどうにか上手いこと説得してor無理矢理、彼女とやる

などの行為をする必要があるだろう。しかし、その男は童貞である為、上記のことを行なっていないということになる。

では果たして、その童貞野郎を、童貞であるということで罵ることは正しいことだろうか?①なんかはまるで女性を物のように扱っているが、もしその男が①のようなことを企んでいたとする。しかし、未だその男は童貞でありまだ考えているだけでやってない状態だ。やっていなくても考えているのであれば同じことだというなら、例えば人を殺したいと考えた奴は皆殺人者になってしまうので、そんな意見は通用しないだろう。

 

例2.その男は童貞で彼女も居ない。全くモテないこともないが、彼は何も女に飢えているわけではないから彼女も要らないということらしい。もちろん、本当に愛すべき相手を見つけたら話は別だという。

この場合、その男が童貞を卒業するには、彼はモテないわけでもないようなので彼に好意を向けている女性を彼が好きになった振りをして、ただ童貞を卒業するためだけに付き合ってヤってしまえば良い。だが、彼はそれをしていないから童貞なのだ。果たして、この場合において、そのまま童貞でいる男と上記のことを行なって脱童貞した男、どちらの方が罵られてしかるべきだろうか?

もちろん私は非童貞こそ罵られるべきと考えているわけではない。非童貞の者の中にも良い奴が沢山いることを知っている。ただ、童貞であるかどうかは人を罵る指標として全くもって使えないものだということを主張したいのだ。

 

また、世の中の童貞に上記の例のような奴は絶対に居ないというなら、その居ないということを証明して欲しい。大変興味深いので是非お願いしたい。

無能な若者

「最近の若者は無能ばかり」

というような話を耳にして、

この意見は決して間違ったことを言っていないのではと思った。

 

 

 

少子化によって有能な若者の人材の数は減っていると考えられる。

そして、世の中の会社の多くは中小企業であり,待遇の良い大企業は一部だ。昔、若者が多くいた時期は有能な若者で中小企業に入った人も少なくなかったでしょう。

 

それが、少子化で中小企業に有能な人材が流れてこなくなり、

多くの大人たち(社会の多くの企業が中小企業であるなら世の大人の大部分はこれに勤めているだろう)は最近の若者が無能ばかりだと感じるようになったというわけだと思うのです。